大人は子どもたちの失敗を「なっていない」と時折批判しますが、最初から正しいことなどあるわけがない。失敗の繰り返しのなかで、正しさが作られていきます。大人は、自分が生きてきたベクトルに子どもを埋め込む無理強いをそろそろやめた方が良いと思うのです。
二日間にわたって行われた体育祭。たくさんの失敗はあったが、教師は一度も指示をすることなく陰から支え、生徒たちを信じて待ちました。一元的な制度のあり方に疑問を持ち、新しいものを創ろうとすれば失敗は付き物です。素晴らしい体育祭でした。失敗はプロセスの一部なので、失敗から学んで次の成功に繋げればいいだけです。
本校が「学校運営を生徒主体に移譲する」ことを進めてきたのは、自分の力で学校を変えた経験のない若者が、社会を自分の力で変えようとする活力を持ちえないからです。自分の力で学校を変えたという経験を持つことで、自分の可能性を探すことができます。可能性とは、自分にしかできないことを、人と繋がりながら、信じ続けることです。
自由と規律の間には境界線があります。この境界線の大半は生徒自身に決めさせたい。なぜなら、社会に出れば自由と規律の境界線は自分で判断するからです。成功しない人は、壁にぶつかった時に「乗り越えられないのではないかと」と心の中で迷いが生じる人です。でも成功する人は、壁にぶつかった時でも、「自分には可能性がある」と自分を信じる人です。社会に出た時、その差は大きい。
教育って子どもを信じることからはじまります。子どもたちの可能性を開くためには、子どもたちを信じて待ってみればいいと思うのです。待つことって、「動」ではなく「静」なので、とても我慢がいることです。
県立高校で忙しくしていた頃に読んだ「『待つ』ということ」(鷲田清一著)を書棚から取り出し、ページをめくってみました。
「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ、自分を超えたものにつきしたがうという心根をいつか喪ったのだろうか。時が満ちる、機が熟すのを待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか…」
生徒たちは次年度の体育祭に向けてすでにスタートを切っています。来年度中心となる高校2年生がこう言います。「今回の体育祭は挑戦したことがたくさんあった分、失敗もあり、反省も多々ありました。それを活かしながら、自分たちの体育祭をどう作っていくか。考えていきたいと思います。自分たちのことは自分たちで考えます」。
安心して失敗していいですよ。でも失敗をしながらもさらなる可能性を求めて背伸びだけは続けてくださいね。来年度の体育祭を今から楽しみにしています。
【写真】生徒自身が予行をやらないと決め、その代替としての紙上体育祭。この会議で体育祭運営のすべてを協議