【待つ時間】
校長室の雰囲気を変えようと思ったのは、「不登校」の子どもたちと対話を重ねるようになってからのことです。この時の対話はひたすら待たなくてはならず、その時間がしんどくなる時もあります。
自分が主導して子どもから言葉を引き出せば、待つことのしんどさは解消するかもしれません。でも、大人の仕事は、今なぜ苦しいのか、どういう生き方を描こうとしているのか、そして私たちに今何をしてほしいのか、そのことを子ども自身が語るための時間を受容することであり、それが待つということなのかなあとも思います。
「待つ時間」には、期待や希望が包含されます。その時間を大人が断ち切ってしまえば、子どもたちのたくさんの願いに取り合わないことになる。
教育環境を伝統と慣習で覆うのは、未来との遮断にもなります。私自身、今年度から新しい教育課程がスタートして、さらなる未来図を描くことにやや行き詰まっています。でも、その悩みを打ち消すことは意外と容易いことで、作ったものと距離を置いてぼんやり眺めてみることかなあとも思います。
「無理しないで回り道していいよ」と言ってあげれば、勇気づけられる子どもがたくさんいます。先日校長室を訪れた生徒にも、「しんどい時は焦らずに、きざしが見えるまで待てばいい。一歩踏み出すための機を一緒に信じよう」と。校長室の環境は、「待つ時間」を受容する穏やかで温かい雰囲気でありたい。
大人でも辛い時はたくさんありますが、その時、私たちは良い時が必ず来ると信じて待ち続けています。胸がはちきれそうになった時も、静かに待ち続けていました。待ち続けているうちに、ある時に何もかも変わる瞬間があって、今までの嘆きが思いがけず薄らぐ時があります。大人も子どもも同じかなあ。互いに「待つ時間」を大切にしたいと思うのです。
娘とライン電話をしていた母親(妻)が、「あなたが小さい頃、『岬のおじいさん』という絵本を読み聞かせながら、自分が泣いたことがあったのよ」と話していました。娘はそのことを憶えてなく、その絵本の内容も今となっては知る由もないのですが、その話を隣で聴きながら心に感じたのです。娘はいつか我が子に絵本を読む時、中身は違っていても、母親の声を思い出して涙するに違いない。時間はいったん途絶えるが、待つことで時は繋がる。