他者のために自分の靴を脱ぐ(9.17全校生徒向けの話)

【他人の立場に立つためには自分の靴を脱いでみる】  

 今日は君たちにお願いをしたいことが二つあります。

  一つは、社会が認めない過ちをこの学校からなくしたい。常々、私は「社会で認められていることはすべて学校でも認める。でも社会で認められていないことは学校でも認めない」と話をしています。

 でも過ちを犯す可能性は誰にでもある。私の父親は戦争中、10歳の時に山形県の田舎村に疎開します。田舎の食事は草や葉ばかりでそれはひどいものだった。そんな時に父親の母親が慰問に来た。その時お母さんが10歳の父親にそっと隠すかのように何かを渡した。母親が帰ってからそれを見ると、わずかな小さいおせんべいだった。でも、父親はせんべいをみんなひもじいとわかっているのに、誰にもあげなかった。

  父親は言ってましたよ。ボクはそんなに意地の悪い子ではない。でもせんべいを友達にも上げなくなってしまうのは戦争のせいだ。ボクは悪くない。でも、せんべいは、まだ一つしか食べていないのに、とても大切にしていたのに、母親が持ってきた二日後に誰かに盗まれた。

  父親は、盗んだ相手をものすごく憎んだが、戦争という苦しい環境は人も変えるということも学んだという。でも苦しい環境だから過ちを犯して良い訳がない。なぜならば、苦しい環境は自分で変えられるから。

 人間苦しい時はある。一本道だと思うから苦しくなる。一本道しかなくて引き返せないと思うから苦しくなる。道は四つ角もあるし、五差路もある。苦しくなったら引き返して違う道があると思えばいい。

 苦しい環境は自分自身で変えることができる。

  「みてござる」という言葉があります。誰かがみている。誰かに見守られている、という言葉です。自分の心の中の良心が見ているのか。他人が見ているのかはわからないが。でも、いつも誰かに見られているという意識を持って毎日をすごしていれば、人は過ちを犯さない。

いつも言っているように失敗はたくさんしていい。でも社会が認めない過ちは学校からなくす。

二つ目は、他人の立場に立つ想像力を持ってほしい。

  新聞の投書でこうした記事がありました。

  12月の寒い日に。電車の中で二人の老夫婦がとても落ち込んだ様子でヒソヒソと話し込んでいる。 どうやら初老男性の方の母親が危篤状態で、最期を看取るために二人で病院に向かっている最中のようだ。

妻「お母さんに電話をして声をかけてあげて」  夫「ここは電車の中だし迷惑がかかるから、やめた方がいい」妻「だって、これが最期の会話になるかもしれないんでしょ。後悔しますよ」  夫「分かってる。分かってるけど、電車の中で電話をするのはやめた方がいい」

  その時、近くにいた女性がこう語りかけます。 「お気になさらず、電話、かけてあげてください」。 周囲の乗客もみんな頷き、男性は泣きながら電話で母親に言葉をかけた。こういう内容の投書でした。

 演出家の鴻上尚史さんはシンパシーとエンパシーの話をよくされます。シンパシーは同情心。エンパシーは相手の立場に立って物事を考えて行動できるスキル。シンパシーだけならばこの女性は声をかけなかったろう。でもこの女性は相手の立場に立って物事を考えるエンパシーの力を持っているから、声をかける行動ができた。

 相手の立場に立つためには、自分の靴を脱がないといけない。自分の靴を脱げない人は相手の立場に立つことはできない。相手の立場に立つためには、他人の靴をはかなくてはならない。

 

 創英祭での書道部による書道パフォーマンス。

「友に誓い、共に追いかけた日々が僕の人生を彩っていく。本当の自分を探す航海に進め。君らとなら心躍る」

  歳を重ねると、こうした「青春な気分」の表現は照れくさくてできませんが、「自分を探す航海も、友となら心躍る」。生徒たちから教わることが多いです。